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美しい庭の哲学
『情報誌 京都』  2005年11月号  (石田大成社)

美しい庭の哲学
美しい庭の哲学 「植治」11代・庭師  小川治兵衛
「山ばな平八茶屋」21代・若主人  園部晋吾
日本の食文化を再考する
京料理の真髄を訪ねて

美しい庭の哲学
京都の料亭には美しい庭がみられますが、食事しながら眺める景色はなんとも風情のあるものです。京都の洛北にある「山ばな平八茶屋」のお庭は、大きな木や石、川が流れ、賛沢な造りですが、今一度見直したいというのが、若主人の園部晋吾さん。京都を代表する庭師・小川治兵衛さんにお越しねがい、園部さんの率直な疑問にお答えいただきました。それは、「庭の哲学」ともいえる深遠なお話になりました。

京都の料亭に美しい庭がある理由。
それは、都人の特別な場所だった。

園部 はじめまして、よろしくお願いします。今回のテーマは「庭」ですが、京料理というのは何も料理に限ったことではなく、器やしつらい、さらに庭に至るまでトータルで味わうものだと思っています。その世界を提供するのが我々料亭ですが、京都の料亭には「美しい庭がある」というのが一つの特徴ですね。うちにもご覧の通り、庭があるのですが、実は私、今、この庭を見直したいと思っているのです。そもそも、何のために庭があるのか。今日はせっかく小川治兵衞さんに来ていただいたので、根本的なことからお尋ねしたいと思っています。早速ですが、京都にはいろんな種類の庭がありますね。私共のような料亭の庭、お寺の庭、個人の邸宅など様々ですが、なぜこのように発達したのでしょうか。それぞれの庭に違いはあるんでしょうか。
小川 京都は千年も都があった地ですから、公家や武家、社寺関係、町衆などいろんな人が集まってきました。衣食住に関わることは使う人の二ーズによって発展するわけですが、いろんな人が集まれぱ、おのずと好みや用途が生じてきますね。庭が発達したのも、その道理です。いろんなニーズに応じてきたので、いろんな庭ができたんですよ。庭を形づくる要素は、土と石、木、花、水、そして空かな。どんな庭を造るのでも使うものはこうした自然物で皆同じですが、庭の用途によってその意味合いが変わってくるんです。たとえば、石。お寺の庭に置かれた石なら、それは仏さまを表すなど宗教的な意味がもたらされる。ところが、料亭や邸宅の庭石だと必ずしもそうではない。
園部 確かに、そうですね。
小川 先ほど言いましたように、京都は千年の都で、地方からいろんなものが集まり切磋琢磨され、いいものが残ってきた。それが都の文化です。そして料亭は、非日常的な特別な空間として、都人が求めた場所です。いわゆるハレの日にご馳走を食べにいく。そういう時は、普段よりいいものを着ていきますね。だからそこは、気分がいいところでないといけない。部屋は季節の花や美しい工芸品でしつらわれ、外を眺めると、きれいな風景が広がっている。そのために庭ができたんですよ。
園部 確かに、お客様は料理だけでなく風情を味わいにやって来られます。その雰囲気を演出するのが、まさしく料亭の庭ですね。
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もう一度自然を取り戻したい。
失われて再び求める、魂の共鳴。

園部 私は庭の概念を今ひとつ捉えきれてないのですが、料亭では庭を眺めながら食事をします。これは自然の中にポツンと建てた庵で外を眺めながら食事することと、どう違います?
小川 それはぜんぜん違うね。その庵から見る自然は、まさしく自然そのもの。一方、料亭の庭は自然をわざわざ取り入れているから、人工的な自然。人間は自然を取り込みたいという欲求から、庭を造ったんですよ。あらゆる生物の中で、人間だけが文明をもち、どんどん自然を遠のけるようになった。人間だけの世界を創り上げて、気が付けば、アスファルトの道路とコンクリートの建物に囲まれ、周りにはほとんど自然がなくなった。そうして自然を排除しながら、呼び戻そうとしているのが庭なんです。だから、庭はいわば不自然やね。ここになかったものを、よそから持ち込んでるわけやから。庭木と自然木は、厳密に言えば違うんです。園部さんはどんなものが自然だと思います?
園部 人間の手の入ってないものでしょうか。
小川 そうやねえ。しかし、その人間も本来、自然物だったんですよ。
園部 言われてみれば、そうですね。治兵衞さんのお話をうかがい、庭の概念についてだんだんわかってきました。結局、庭というのは、極端な言い方をしますと人間のエゴを反映したものということになるのでしょうか?
小川 そうねえ、ある意味エゴかもしれない。でも、エゴというより本能なんですよ。人間はもともと自然の生物だと言いましたね。太古を振り返ってみればそれはわかります。しかし、文明が発達して、自然を排除してしまったら、落ち着かなくなってしまった。自然から隔離された世界にいると、もう一度、自然に近づきたいという欲求が湧き起こるんです。本能が呼び覚まされるんでしょうね。この部屋から川を眺めていると、いつまでも飽きないでしょう。山に沈む夕日だってずっと見てても見飽きない。そんなことありませんか?
園部 ええ、確かにそうです。
小川 人間は自然にふれると、心がまろやかになり落ち着く。癒される。魂のふるさとに帰ったように共鳴するものがあるんです。それはやっぱり、人間も、もともとは自然の生物だから。人間の生命体には大地や海が潜んでるんですよ。太古の記憶ということかな。そこで、日本、特に京都には四季折々の美しい自然があったから、そこに住んでいた人々は自然に敏感だった。自然を愛で、自然と一体化する感性が養われていったのです。そうした感性によって、美しい庭ができたんですよ。庭を求める人造る人ともに、自然に歩み寄る感性があったんです。
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美しい庭の哲学 平八茶屋の庭はおよそ600坪。庭では小鳥がさえずり、木の実が落ちる。部屋からは高野川の流れを間近に見ることもできる。京都の老舗料亭ならではの典雅の中に、野の趣きを感じることができる。まさに街道と清流に切り取られた小宇宙のごとし。それが今に至るまで.都人に愛され続けている大きな魅力であろう。
庭に込められた先代のストーリー。
そこには自然と溶け合う仕掛けが。

園部 私共の庭は長年受け継いでいるので、木が成長して随分大きくなってしまって、どこまで剪定(せんてい)していいのかわかりません。それはどう判断すればいいのでしょうか。
小川 木をどこまで剪定するかは、その庭の目的次第です。庭はもともと目的があって造られており、それに応じて植木が配置されています。植木には、主木、脇の木、根締め(根元に植える草木) と役割があります。映画でもスターがいれば脇役がいますね。全員がスターには成り得ません。いろんな立場の人がいるからハーモニーがあるのです。庭木もそれと同じです。まず、それぞれどんな役割の植木だったかを見極める必要がありますね。
園部 平八茶屋の今の庭が造られたのは、おそらく昭和初期だと思います。昭和の初めに大きな台風がありまして座敷がすべて流されてしまい、その後に再建されました。今の庭もそのときに造られたようです。以来、部分的に修復してつぎはぎの状態ですので、もともとこの庭がどういう庭であったか、今ではわからないんです。
小川 ほう。昭和初期ということは園部さんにとってお祖父さんにあたる人ですか?
園部 いえ、その上の上の代で、17代目の当主の時代ですね。
小川 それでも17代目! 園部さんは21代目ですか、たいした歴史ですね。今ではすっかり庭の目的がわからなくなっているようですが、造った当初は思いがあったはずなんですよ。それを園部さん自身が毎日眺めて発見することですね。私が拝見したところ、この庭は縦に長く、水の流れがありますね。入口に水があり、奥へと川が造られている。今では根締めが大きくなりすぎて、川の存在が目立たなくなっていますが。お客さんはこの庭を通り、そして各部屋へ上がる。すると、部屋の向こう側には高野川の風景が広がっている。つまり、庭を流れる水が高野川へとつながっていく、先代はそういう水のストーリーを構想されたのかもしれませんね。部屋にいながらに して自然と溶け合う面白い仕掛けですよ。
園部 言われてみると確かにそうかもしれません。私はこれからこの庭を造り直したいと思っているんですが、思いが三つあります。一つは各部屋から眺めて美しいように、二つ目は余計なものが見えないように、三つ目は配膳しやすく機能的に。部屋に料理を運ぶには庭を通らないといけないのですが、雨が降ったりすると足元がぬかるんで大変なのです。
小川 なるほど。あのね、今言ったことをそのまま庭の目的にすればいい。その三つの思いはちょうど、お客さん、店の主人、お運びさんの視点で捉えられている。でもね、一から造り直すのではなく、大きな木や石はそのまま活かしてください。大きな木は、何百年と平八茶屋とともに歴史を歩んできたのです。だから、大切にしてあげてください。また石は、その家の格を表すものですから、財産として活かすべきです。430年という歴史があるからこそ味わえる庭の良さを大切にしてほしいですね。平八さんはちょっと郊外にあるから、鄙びた風情や高野川に面するロケーションが、町中では味わえない良さです。部屋の一方はダイナミックな本物の自然が広がっているわけですから、もう一方の庭は緻密な味わいが出ればいい。陽の庭と陰の庭。そしてそこに、繊細な京料理が運ばれてくる。そのバランスが趣深いと思いますよ。
園部 治兵衞さんにアドバイスいただき、見直しの方向性が見えてきたように思います。
美しい庭の哲学
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小川 庭造りに「絶対」というのはないんです。だから、今ある庭が絶対というわけではない。今生きてこれから受け継いでいく園部さん自身が見て、どう考えるかです。小さい頃からこの庭を見ているんでしょ?見慣れた光景だと当たり前になってしまって、どこをどう直したらいいか、わからないかもしれませんね。まずは、三方から見ることを心がけてください。角度を変えて見ることで新しい発見があるはずです。それと、ここはお客さんのための庭だから、お客さんの目線で見ることですね。木をどう剪定するかは、その木の役割を見極めることですが、木の側に立って木の気分を味わえば答えが見えてきます。私はいつもそうしてますよ。
園部 はい、今日は本当にいい勉強になりました。私は庭を見直すにあたり、高い木をバッサリ切ってしまって裏の山を見せたいとかあれこれ考えていましたが、治兵衞さんから「この庭がどういう庭であったか考えてみた方がいい」と言われ、ハッと気づきました。庭をもう一度よく見ることで、先代の思いが見えてくるのではないか。一からやり直すのではなく、先代の造ったものを自分の代で復活させて日の目を当てることが私の役目ではないかと。それが長く続いてきた店の代を継ぐという意味じゃないかと改めて考えさせられました。今日は、そういう大切なことを見つめ直す素晴らしい機会となりました。本当にありがとうございました。
美しい庭の哲学 約60年前の昭和10年代に撮られた「不老門」。
同じ場所を撮影し、くらべてみると、ほとんど変わらないまま、趣を増しているのが感じられる。
庭の「デザイン」にも時代の流行があり、そういうものも巧みに取り入れ、いつの時代のお客さまにも喜んでいただけるよう、工夫を重ねている。
美しい庭の哲学

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山ばな平八茶屋(やまばなへいはちぢゃや)
起源は平安初期と伝わるが、主人の名が確認できる天正年間(1576)をもって創業時期とする。若狭街道(鯖街道)に面する茶屋として始まった。江戸中期には萬屋を兼ねた麦飯茶屋、そして宿屋を経て料理屋を営む。都に出入りする旅人をもてなした「麦飯とろろ」を伝承料理とし、当主自らが調理場に入る「一子相伝」を貫く。壬生狂言では「洛北山鼻といえば平八、平八といえば山鼻」と演じられ、また夏目漱石、徳富蘆花の小説にも登場する。
(場所/左京区山端川岸町8-1」)
最終回の対談は初対面のおふたりでしたが、終了後、小川治兵衞さんから手が差し伸べられ、園部さんと硬い握手が交わされました。園部さんは京都きっての庭師を前に終始控えめでしたが、この出会いで感じることは大いにあったようです。 園部さんから投げかけられる根本的な疑問を、次々解き明かしてくれた治兵衡さん。途中、あざやかな文明批判も展開され、人間存在を見つめる契機にもなりました。「料亭の庭」というテーマから壮大な話題に広がるのも、治兵衞さんの懐の深さならでは。 自然に恵まれた日本は、いかに自然に敏感だったか。自然を愛でる感受性を培ったか。料事の美しい庭には、そんな精神が秘められていたのです。 この一年、日本の「食」から和の精神を復興しようと、「京料理」を特集してまいりました。そこでご登場願ったのは、日本の食文化を伝える使命感に燃える、老舗料亭の若主人五氏。京料理の世界を取り巻く達人たちに、その真髄をたずねていただきました。 「京料理」は、素材を生かした料理はもとより、器やしつらい、さらに庭と、トータルで味わう和の総合スタイルです。それぞれテーマに沿って追求したところ、そこには確かに和の精神が息づいていました。思いやり、引き立てあい、切磋琢磨し、生かしきり、自然に共鳴する。この世界と自然と社会と共存していくこころが見えたような気がしました。

表紙
美しい庭の哲学

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