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人間復興の庭造り  11代が語る「植治」のこころ
『すきっと』  2005年9月号  (道友社)

人間復興の庭造り 11代が語る「植治」のこころ 造園「植治」は、江戸時代の宝暦年間(1751〜1763)から250年以上造園業を営み、数々の名人、上手を生み出しつつ、現在で11代を数える。その歴史は近世から今日に至る京都庭園の発展を映している。
火、水、風の恵みをふんだんに取り入れ、形にとらわれない自然流の「植治」の庭の精神に、さわやかで明るい品格を見つけた。

施主の思いに沿う
私どもが「植治(うえじ)」という名で呼んでいただけるようになったのは、7代目小川治兵衞(1860〜1933)の時代からです。
庭というのは造って完成というものではありません。子供が生まれても、その子を育てなければならないのと同じことです。もし、子供を産んだ人と育てた人が違えば、育った子供は実の親と顔は似てても、なんとなく雰囲気が違ったりするものです。
例えば、7代目小川治兵衞が明治42年に造園した藤田小太郎邸(現洛翠庭園)は、戦前は私どもがずっと維持にかかわってきたのですが、終戦後、こうした個人宅の大きな庭は、税金の関係から売りに出され、その管理も私どもとは別の方に移ったのです。
そうして50年以上ほかの方の手入れの下に置かれた結果、7代目が作庭したものとは大きく変わってしまったのです。ところが、一昨年(2003年)、不思議なご縁から、私にこの庭を直すようにとの話があって、7代目の心を活かしつつ、私なりの修復を加えていったのです。
庭というのは、それを作らせた施主がおり、それを実際に造園する者がいるのです。造園する者にとって一番大切なことは、施主の方が最も居心地の良いように、喜んでいただけるように仕事をすることだと思います。
この洛翠庭園は、7代目が造った当時は、藤田小太郎さんのこ自宅でした。自宅の庭というのは、主人がいろんな仕事をなさって帰宅されたときに、気楽にくつろいで楽しむものなんです。ところが、自宅の庭を、お寺や公の場所の庭園と同じような感覚で造ってしまうと、帰宅したときに違和感を持つのです。

琵琶湖疏水と新しい庭造り
一般に京都は水に恵まれていると思われがちですが、実際には逆で、季節や天候に大きく左右されているのです。
例えば、夏になると鴨川の水は枯れてしまいます。作庭と関連して言いますと、京都の周囲にある山々では良い水が出ますが、そうした所は神社仏閣の所領として押さえられていましたから、洛中の庭には江戸時代まで水が自由に使えなかったのです。石や苔で島や大陸を表わし、白川砂で表わす枯山水が盛んに造られた理由は、こうした京都の水事情にあったとも言えます。
明治時代になって事情が大きく変わりました。ご承知のように明治維新に伴って天皇陛下が東京へ移っていかれました。それにとどまらず都として京都にあったさまざまな機能や人も東京へ行ってしまったため、京都は人口も減り、経済的にも大きな打撃を受けたのです。
こうした事態を何とかしようと立ち上がったのが明治前期の歴代京都府知事や初代市長 内貴甚三郎(ないきじんざぶろう)などでした。
彼らは、京都を近代化して国際文化都市を建設することが発展につながると考え、道路や交通機関の整備、ガスや電気水道などの整備を積極的に進めました。特に、上水道の整備はそれまで「生きた水」に恵まれなかった都人にとって悲願だったのです。
これを実現したのが滋賀県の大津から山科を通り蹴上まで琵琶湖の水を引っ張る「琵琶湖疏水事業」でした。その水は、生活用水として使われる一方で、水力発電でタービンを回す「生産の水」として、またインクラインによる「水運の水」としても活用され、京都の水事情を大幅に改善したのです。
そして、この疏水の余り水が作庭に使えるようになり、「植治」では、明治27年以降、「生きた水」を使った庭造りが可能になったのです。
こうした時代を背景として、7代目は山縣有朋公をはじめ多くの有力者から依頼を受け、水を活かした近代造園の道を歩みだしたのです。例えは、洛翠庭園は、中心に琵琶湖とそっくりの形をした池を配しています。それは、この庭の施主であった藤田小太郎さんが、琵琶湖の大津−長浜−今津間に汽船を走らせるなどの事業をされていて、誰よりも琵琶湖を愛しておられた方だったからです。
人間復興の庭造り 11代が語る「植治」のこころ 琵琶湖の南端部分、瀬田の唐橋を模した石橋(飛び石)。「植治」の庭は眺めているだけでなく、遊べる庭。いくつもの橋を渡り、琵琶湖周遊が楽しめる。
自然と人間をつなぐ
私どもの仕事は自分の作品造りをするのではありません。施主のために造らせていただく仕事だから、施主が見たときに心地よくなるような庭造りをするのが私どもの務めであり、楽しみなんです。つまり、庭を見ることによって心が癒やされるような、そんな空間を造れたらと思っています。
では、癒やしにつながるものは何か、庭造りとは何かと考えてみると、人間とは何なのかと考えさせられます。地球上の生物の中で、最も進化を遂げたのが人間だと言われています。ですから人間は、地球上の生物の中で一番優等生のはずです。
ところが、他の生物と違って、人間は母なる自然に逆らって生きているように思えます。
例えば、他の動物は体毛一つとっても、夏毛と冬毛で体温を調節するのに、人間はストーブやエアコンを使います。言い換えると、他の生物は地球の環境に順応するのですが、人間の衣食住は大なり小なり自然から隔離された状態にあるのです。特に建物は、鉄筋コンクリートが主流ですし、道もアスファルトやタイルがほとんどで、土はあまり見かけません。
つまり、人間は自然のものをどんどん排除していって、自分たちで隔離しているんです。そして、どんどん人間だけの世界を創り上げて、気が付けば周りにはほとんど自然がない。そこで、せめて身近な生活の場に自然の草木や香りをお届けするのが造園なんです。
石や苔や土や木、池の水、噴水の水、大空、太陽、月、風、雪、雨、これらは皆、庭の材料す。ということは、陽の当たっている時と雨の時と雪の時とでは、全然風情が違うわけですから、そういった要素も考慮に入れて、作庭していくのです。
また、例えば、洛翠庭園には杉もあれば松も紅葉もありますが、それらは全国のいろんな所から集めてきています。石でも京都にあったものもあれば、九州から持ってきたものもあって、それらをここでバランスよく組み込んでいます。
つまり、洛翠庭園に集められた材料は生まれ故郷の自然から離されて構成されたものですから、厳密に言えば、実は非常に不自然なんです。不自然な世界ですが、草木たちは皆生き物ですから、それぞれが新たな環境に順応するんです。その時に、より順応しやすいように配慮して世話するのが私どもの大切な仕事なんです。
人間復興の庭造り 11代が語る「植治」のこころ 11代小川治兵衞が新たに作った「龍の背」の歩道。踏み石の配置が変わることで新たな視点が見つかる(洛翠庭園)
人間復興の庭造り 11代が語る「植治」のこころ 7代目小川治兵衞がガーデンパーティーができるようにとの依頼を受け、洋風を取り入れた無鄰菴(京都市左京区)
古来の進行と形式の世界
さて、庭園の歴史的変遷について少し考えてみたいと思います。
同じ庭造りといっても他の日本文化と同じように、江戸時代までと明治以降とでは大きく変わりました。ところが、皆さんが一般的に思い描いておられる日本庭園は明治以前のものが非常に多いようです。それは日常生活の中で目にする庭園が、神社仏閣のものが大半だからだと思います。
明治以前、日本人は、自然に対する直接的な信仰を持っていました。石そのものが神さんであり、山、水、川、滝それぞれが信仰の対象だったのです。石の置き方や池の造り方にも崇拝の対象としてのあり方が求められました。
ですから、そこに自ら形式的なものや決まりができてくるのです。これは、日本人が一番好きな世界です。お茶の世界でもそうです。決まりがあれば非常に安心感があるわけです。
そして江戸時代までの庭は、眺める対象であって、庭の中で遊ぶということはあまりなかったんです。ましてお寺の庭などは正座して拝観するのであり、信仰の対象であったわけです。つまり、明治以前の庭は古来の信仰と形式の世界だったのです。
人間復興の庭造り 11代が語る「植治」のこころ 琵琶湖疏水は明治23年(1890)に完成。その20年後には第2疏水を建設し、今も京都の街に潤いを与え続けている(京都市左京区)
明るく、楽しい空間
明治以降、庭造りの考え方は大きく変わりました。それは「生きた水」が使えるようになったこと、芝生を取り入れて人が参加できる場所になったことによるものでした。
具体的には、7代目が山縣有朋公の依頼で「無鄰菴(むりんあん)」を造った時に、芝生の広い場所を造るようにと言われたのがきっかけでした。山縣公は家の周りに芝生をフラットに張って、ガーデンパーティーができるよう所望されたのです。
それだけではなく、7代目は川向こうの築山にそれまでのような苔を植えるのではなく芝生を植えたのです。ところが、芝生というのは光を好む植物ですから影を作ると駄目になります。そこで大きな木を植えずに、サツキなど低木の“根締めもの”を植えることによって陽がたくさん入るようにしたのです。
それまでの京都の庭を表す言葉は、「わび、さび」でした。ある意味で、陰気でわびしい、さびしいものだったのです。でも、明治以降の庭は、明るい、楽しいものに変わっていったわけです。
初めて庭を造ろうとする人は、ちょうどお腹のすいた人があれもこれも食べたいと思うように、実現したい夢がいっぱいあるのです。あんな木が欲しい、こんな灯籠があったら……。いろんな夢を満たそうとするわけです。
そんな施主の夢を実現しようと、7代目はいろいろ試行錯誤しましたが、だんだん様子が分かってきて、それまでの日本庭園になかった非常に明るい空間を作り出したのです。そして、水が使えるようになったので枯山水ではない本当の池が作れるようになりました。芝生と大きな池によって、陽のよく当たる見晴らしのいい庭に様変わりしたわけです。
それまでの「わび、さび」というのは非常に限られた空間であり、影の世界でした。しかし、真ん中に陽光が差すことによって周りに影ができるという、コントラストの世界になったわけです。私が思いますのに、庭造りというのは、水平と垂直、高いものと低いもの、陰と陽といった異なった性質をバランスよく限られた空間の中に組み込むことなんです。
人間復興の庭造り 11代が語る「植治」のこころ 「庭は難しく見るんじゃなく本当はこの芝生に、座ったり寝転んだりして楽しむのが一番いいんです」
人間復興の庭
庭造りには必ず精神があり目的があります。また、それらがないと駄目なんです。
冒頭でも申しましたが、私が庭を造るのは自分の造りたいものを造るのではなく、施主の作品造りをするんだという心構えが大切です。
つまり、施主の望んでいることをはっきり理解し、さらに好みを盛り込んでいくのです。すごく明るい庭を好きな方もあれば、少し暗いのが好きな方もおられます。また、花が趣味の方のためには、花々をうまく配するようにします。
要は、施主の顔が見えるような庭造り、ご主人が一番住み心地の良い庭造りが「植治」の精神です。「植治」は「人間復興の庭」を目指しているのです。それは、歴史の流れでもあるのです。
日本の文化は、明治維新を境に大きな転換期を迎えました。西洋文化が入ってくるとともに、京都にも新しい文化が生まれました。そのときに形式文化は批判され、人の好みに合わすことが肝心とされるようになったのです。
私どもも形式的な考え方に基づく作庭は良くないと思います。それよりも、精神を学ぶことがはるかに重要で、「植治」の精神で庭を造ることを仕事の誇りにして代々受け継いでいきたいと思っているのです。
例えば、植木の刈り方も単に形を真似しても駄目で、それぞれの庭に合った刈り方をする。目的性と精神性こそが重要なのです。
「植治」の庭に技術的な掟はありません。しかし、代々受け継がれてきた精神はこれからも大切にしていきたいと思っています。

表紙
人間復興の庭造り 11代が語る「植治」のこころ

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