真剣な会話

「一本の樹木から四季を感じる心」 植治 小川勝章さん

江戸宝暦年間(1751〜1763年)から続く、京都の造園「植治(うえじ)」。代々「小川治兵衞(おがわじへえ)」を襲名しており、7代目小川治兵衞は日本庭園史上、近代庭園の先駆者となった。7代目の代表作は、明治の政治家・山縣有朋の別邸「無鄰菴(むりんあん)」。当時完成したばかりだった琵琶湖疎水の水を庭に引き入れ、西欧的な芝生を敷くことで、明治維新という時代の大きなうねりを庭園に落とし込んだ。これが、開放的な庭造り「植治流」の始まりとなる。植治は政財界人の邸宅のほかにも、平安神宮や円山公園など、私たちが目にすることのできる庭園も手がけている。
今回は12代目襲名の日に向け、当代11代目と共に造園に取り組む小川勝章さんに、せせらぎが心地よく響く12月の無鄰菴でお話をうかがった。

Q. 「植治」さんの造園は、開放的で自然に逆らわない作風で有名ですよね。造園というお仕事をどのように考えられていますか?

お庭を造るということは、自然を造るということではありません。造園というと、更地に樹木を植え、石を据えてお庭を造るという印象をよくもたれますが、ただ単に付け足しているのではなく、樹木や石に移動してもらうと考えています。畑から、時には山から樹木が運ばれ、また山や川から石が運ばれます。このように自然を一度崩すことの責任も負いながら、自然に敬意をはらい、その上で自然を再構築します。
例えば、この無鄰菴であれば、琵琶湖疎水の水を使ってますよね。琵琶湖から大阪へ向かう水をちょっとお庭に引き入れて、また川にお返しして、鴨川、淀川を通って元あるべき所へと流れていきます。これは、山から海に流れるルートの変更であって、地球の上では少し移動しただけということ。植治はそのように考えています。

Q.年月が経つと、木々の生長や、周囲の環境の変化などもありますよね。そんな中で、お庭はどのように継承されていくのでしょう?

人は一生同じ年齢ではいられませんよね。お庭も人と同じで、100年たって100歳になったお庭は、次の年は101歳になるべき。一番やらなきゃいけないことは、どうやって101歳の喜びをお庭で表現するかなんです。たとえば、昔プライベートだったお庭がパブリックに開放されて、たくさんの人に見られるようになったとします。一人の目線とたくさんの目線、一人が歩く道とたくさんの人が歩く道は変わってくる。必然的にお庭もアップデートされる必要があります。20歳だった頃の外観上の美しさを取り戻すため、力づくで80年間の生き様を消去してしまうと、80年100年かけて積み重ねた喜びまでもが消去されてしまう。一義的な目で見ずに、人間のように1歳1歳、年を重ね、その年ごとに喜びを更新していくことが大切なのです。

---では、ご先祖がデザインされたお庭を、時代によって、樹木や石の配置を変えるなどして造り直すこともあるのですか?

そうですね。造園した先人がいなくても、「何をご覧いただこうして、この石を据えたのか」など、お庭が会ったことのない先人の想いを教えてくれるんです。先人が配置した樹木や石に触ってその想いを受け止めながら、もう一度目指した先を再構築していきます。「今」の想いをお庭に重ね合わせないと、先代にも失礼ですし、これからにも繋がりません。今までのことを見て、これからのことを考えて、今やるべきことをするのです。

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